武士道とは何か?!② 〜義について〜

 前回の続きです。

 

 

義理人情。忠義に厚い。大義名分。

義ってなんなんでしょうね?

挙げた3つの言葉の印象として、堅い感じがします。

 

この本では義について語っている章があります。

 

義とは武士の掟の中で、もっとも厳格な徳目とされています。

 

徳目ってなんですか。

 

weblioより、

徳目とは、徳を細目に分類して列挙した名前、またはその細目の一つ。仁、義、忠、孝など昔から道徳の基本とされるもの。

 

とあります。道徳の基本とは?西洋キリスト教社会では、キリスト教の考え、つまり最初の考えが道徳の基本なわけで、彼らの行動基準となっています。

彼らは幼い時に教育されるのです。

 

一方、我々日本人はどうでしょう。道徳の授業が小中学校でありましたね。日本人は無宗教だなんて言われ方をしますけど、立派に宗教をもっていると思います。学校で習う道徳がまさにそれです。

 

道徳の授業の賛否は置いておいて、我々は幼い頃から宗教的な教育がされているのです。それが今を生きる我々の行動規範となっていることも十分あり得ますよね。

 

僕の意見を言わせてもらうと、現行の道徳授業は冗談にすぎないので、キリスト教や仏教、イスラームの考え方を学ばせたほうがよっぽど有益だとは思います…。

 

さて、武士道の中で、義について否定的な見方もある。

義理とは義務としての側面があり、一部盲目的にそれに従わされる場合があります。それは義理という感覚は人間社会の中で時間をかけて自然とできたものだからです。義理には従うが、そこに明確な根拠を見出すことが難しくなってしまうのですね。

 

そのため義理はしばしば詭弁として扱われてしまうことも少なくありません。詭弁とは、道理に合わない、言いくるめるための議論のことです。言い換えればごまかしの議論ということです。

 

しかし、武士道は明確な勇気と敢然と耐えうる精神力を持っています。武士道にその要素が備わっていなければ義理はその時点で卑怯者の詭弁となっていたであろうと作者は言っています。

 

まとめ

義とは道徳的規範の一つで、サムライは従って然るべきものである。

しばしば詭弁として扱われるが、武士道の世界では明確な道理が存在するため、義という考え方が力を失っていない。